撮られること












撮られること




コトノハカメラ(@kotonohacamera)さんに、写真を撮ってもらう。


子どもが小学校に入学するので、その記念に、と。


僕は、自分でもカメラを構えて写真を撮る。わりといいカメラを持っているし、そこそこの写真は撮れるけれど、それでも出張撮影までして、写真を撮ってもらうのは、どうしてだろう。




自分の普段撮っているような日常の写真を誰かに「撮られること」を通して思ったこと、感じたことを書いてみたいと思う。





日常を切り取る




コトノハカメラの貝出さんの撮る写真は、日常の自然な姿を写し出すものが多い。フォトスタジオではなく、自宅や家の近所で。


かしこまった正面の姿ではなく、お互いが顔をみて話すさまを、そっと切り取っていく。


Instagramで流れてくる貝出さんの写真をみて、絶対にこの人に撮ってもらいたい、と思った。穏やかで、優しい、安心できるいつもの家族の時間が流れているのが写真から伝わってくる。


切り取られた一瞬から物語が生まれ、家族が過ごすその風景にお邪魔するような感覚を味わえる。幸せな気持ちになれる。


そんな写真を撮ってもらいたい、と。











家族の風景




僕がいつも撮っているのは、僕がみた「家族の風景」でしかない。たまに娘にもカメラを持たせて、撮ってもらうこともある。娘のみている景色もとても面白い。でも、それは一部だけにすぎない。家族皆が過ごしている姿は、誰かにお任せすることでしか、撮ることができない。当たり前だけど。


自然な写真を撮るのは、とても難しい。見ず知らずの誰かが、いきなり自分たちの日常に入ってきて、ふだんの日常を演じることは、とても難しい。カメラの持つ力はすごい。人を圧倒させ、萎縮させるほどの支配力がカメラにはある。


撮る対象を安心させ、カメラの気配を消し、そして一瞬を見逃さないというのは、プロにしかできないことだ。









どこにでもあるような「家族の風景」は誰でも撮れるわけではない。


貝出さんは穏やかで、子どもも自然と安心する風貌や人柄も、とてもうまく活かして自分の技術にしている人だ。




子どもや、妻の写真だけなら、たぶん僕でも撮れる。多少下手でも、いつでもどこでもカメラを持って出かけているから、奇跡の一枚も、何万という写真のなかから百枚くらいはきっとみつかる。でも、わずか3時間ほどの撮影のなかで、それを写すことはきっとできない。あと、そこに僕がいない。




こんな風に見えるんだ。


と、いつもの風景に潜むいろんな感情に気づかされる。それはスタジオでの撮影ではきっと見えてこない。











わざわざお金を出して「日常」を残すということは、それに何かの価値を感じているからすることでもある。


今とても大切に感じているものを、そのままに撮ってもらえるというのは、少なくとも、僕にとってすごく価値のあるものだった。


とても大切な家族の時間、そのものを撮ってもらうこと。それが、出張撮影の魅力なんだと思う。



ちょうど桜の満開に咲いた、この春の写真は、ずっと大切な宝物だ。





























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