丁寧な暮らし


















「丁寧な暮らし」。





ライフスタイル雑誌を見ると、必ず紹介されるのは丁寧な暮らしだ。





早朝、コーヒーを豆から挽き、じっくりと熱いお湯を注ぎ淹れる。



古くなった椅子の生地を新しいものに仕立て上げる。



穏やかに流れる音楽を聴きながら、床を磨き、窓を拭き、埃を掃く。



時間をかけてスープを仕込み、それを、お酒とパンと一緒にまた時間をかけて嗜む。





日常に行われる、日々の動作のひとつひとつに価値を置き、それらを丁寧に扱う。





時短、効率化、ながら家事。そんな慌ただしさに追い込まれた日常を取り戻す。





こうした「丁寧な暮らし」は、とても素敵なもので、否定されるものではない。



日々の暮らしを大切にしたいと願う人が多いからこそ、この話題は成り立つ。





一方で、それ自体が「丁寧な暮らし」消費になっていることに辟易したり、供給過多になっていることに反発を覚え、嫌悪感を抱く人も少なくない。





「丁寧な暮らし」は、雑誌のなかできれいに整えられた理想の世界の生活であって、現実の生活はもっと乱雑で、汚れていて、だらしない。





その「だらしのなさ」こそ、本当に愛おしむべきではないか。





そんな声が聞こえてくる。



















「安心する」「ほっとする」「親近感がわく」そんな生活に興味を持つ一方で、



「きりっとした」「気持ちの良い」「面倒だけど大切にしたい」生活に興味もある。





それは、たぶん一人のひとのなかに同居しうる感覚だと思う。





丁寧な暮らし。はいはい、いいよね、できたらいいね、と理解しつつも反発したくなるのは、自分の心の中にある相反する感覚の葛藤だ。





この奇妙な葛藤は、実はとても魅力的で、うまく人を網に引っ掛けていく。



「丁寧な暮らし」というマジックワードは、嫌われながらもどんどん拡大して一人歩きしている。





拡がって、散らばった言葉は、本来の密度を失って、とても薄っぺらいものになってしまった。





僕らはただ、いつもの生活を気持ちよく過ごしたいだけなんだ。





自分の生活のなかに、他人のやり方が入り込むときは、必ずそこに反発が生じる。



それは時間をかけてゆっくりと溶け合っていく。



「丁寧な暮らし」も、世間の消費のスピードに踊らされて、急いで取り込まれようとされていたのではないだろうか。



乱雑な部屋に突如置かれた、真新しい無垢材のテーブルのように、どこか違和感のある際立った存在。それが使い込まれ馴染んでいく過程自体が、「丁寧な暮らし」なのだと思う。









だから、僕らは「丁寧な暮らし」に対していま評価を下すことはできない。









その真価は、きっと何十年も経って、すっかり忘れられた頃に、ふとした拍子に立ち現われるものなのだ。



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