地方に暮らすこと
ここではないどこか
田舎と都会はどちらが住みやすいだろうか。
そんな話題は常に絶えない。
先に、自分の経験を話す。
岐阜に生まれて、京都の大学を出て、東京で働き、いまは大阪で暮らしている。
妻の実家は石川だ。
一応、田舎も都会も、それぞれの暮らしを経験している。
地方にも都会にも特別な思い入れや憧れがあるわけでもない。
それぞれのライフステージのなかで、それぞれの場所を、楽しむことができた。
たぶん、どちらでも暮らしていける。
そこには、道と家があって、人がいて、それぞれの日々が流れている。
それは、海外に住むときも同じだと思っている。言葉はいづれ、分かるようになる。
田舎の不便さも、都会の不便さも、そのどちらも人は克服することができるし、生まれ育った国とは異なる文化にも、慣れていくことができる。
じゃあ、どうして移住・地方・ローカル、そんな言葉が流行ったり、あるいは人は惹かれたりするのだろう。
自分の今いる場所を肯定したがっている。
今いる場所にどんな意味があるのか、知りたがっている。
どこか遠くに自分の理想の居場所を探している。
今の生活に不満を感じながらも、踏み切れずに流れるままに日々を過ごしている。
みんな、どこか自分の生活に不安を抱え、「ここではないどこか」を探しているのかもしれない。
移住すること
もし、田舎への憧れ、都会への憧れが、「ここではないどこか」を探すためのものだとしたら、
安易に、移住を勧めたりはしたくない。
でも、「移住」という言葉の持つ強さはすごい。
人の憧れをそのまま現実にすることのできる、強い言葉だ。
都会でも、田舎でも、人はなんとかやっていける。
そこで生きていける人が確かにいるのだから。
だから、勢いで移住をしてしまっても、何とかなる。
そして、その決断を肯定したい、とたぶん皆思うだろう。
なんとかやっていけることに、喜びを感じるだろう。
それは、移住の成功体験として語ることができる。
その語りは、「ここではないどこか」を探している人にとって、とても魅力的だ。
「移住」は、そんなメカニズムで動いているように思う。
地方のこと
「都会」に移住する、とはあまり言わない。移住という言葉から連想される多くは、「地方」だ。
人が少なく、広い空のある場所。
尖った最先端の文化が生まれていない場所。
新しいなにかを自分で作ることのできる場所。
旅をしながら、いろんな地方を見てきた。
そのときに、ここに住む自分を想像してみる。
うまくイメージできた土地は少ないけれど、そんな土地には、同じ「地方」でも自分の好きなものがそこに詰まっていた。
そこには、独自の文化があったり、都会の文化を持ち帰った人がいたり、街の中に文化を感じる場所があった。カフェ、本屋、宿屋、あるいは市場や商店街の中、さまざまな場所にその匂いが感じられる。
その独特の地域の匂いが好きで、旅をしたくなる。
いま、大阪に住んでいる自分は、今の暮らしが「ちょうどいい」と思っている。
適度に都会で、田舎もどこか感じられる。
大阪特有の危なっかしいような、心温まるような、面白さを求める文化も、楽しんでいる。
小さいころには、何もないと思っていた故郷の岐阜にも、いまはさまざまな文化の匂いを感じている。
一時期、すっかりシャッター通りになった商店街には、新しい店主が戻り始めていたり、マーケットが開催されたりしている。
同じようなことが、全国の「地方」で起きている。
もし、地方に住むことを選んだら、その文化の中心に飛び込んでいきたいと思っている。
その動きのど真ん中で、変わる世界を感じてみたい。
そんな覚悟を持って、地方に住みたい。
自分にとっても、地方に暮らすことは、新しい人生の始まりでもあり、「ここではないどこか」への憧れなのだと思う。
安易に、都会での暮らしを否定したくない。
いまの自分の生活も、悪くない。
「地方」への特別な強い思いも、無い。
だけど、いつかそれを選ぶときがくるような気がしている。
そんな「いつか」への期待でもあるのかもしれない。
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