のんべえと居酒屋
近くの居酒屋で
下町に住んでいると、まるで家のような居酒屋をちらほらと見かける。
駅から自宅までの帰り道、たまたまその一つに入ったところ、すっかり馴染みの店になった。
夫婦ともに、よくお世話になった。
おばあちゃんが一人で営む、カウンター席が10席もない小さな店だった。
壁に貼ってあるメニューは、ポテトサラダ、だし巻き、おでん、そしてハムカツ。他にもいろいろ書かれているが、そもそも、その日それがあるかどうか分からない。値段も書いていない。
雑然としたキッチンのなか、ゆっくりとした動作で、その日あるものを適当に作ってくれる。
お客さんはみんな自分で、カウンターの上の日本酒をコード付きの徳利に入れて燗にする。だから、いくら飲んだかは誰も覚えていない。
おばあちゃんの経験と勘で、その日のお勘定が決まる。飲食店としてかなり怪しい部類のどんぶり勘定だが、その店の常連客はみな細かいことを気にしない人だった。そもそも、そんな人はここの常連にはなれない。
※当時の写真があれば、と思って探したが、殆ど見当たらなかった。写真手前に移っている取っ手の取れた徳利は、スイッチを入れるとお酒を温めてくれる魔法のつぼだ。
カウンターに入る
居酒屋のカウンターに立ったことはあるだろうか?
この居酒屋で、僕は初めてカウンターに立って料理をした。
ある日、おばあちゃんが、腕を骨折していたからだ。
ふつうは休むところを、営業してしまう。
「大丈夫?おばあちゃん、座ってて。私ら自分でやるから」と客が立ち上がってしまうのが、この店だ。
冷蔵庫から、適当に材料を借りて、焼きうどんを作ったり、魚を焼いたり。他の常連客も揃い始め、皆自分でビールを取り出して飲み始める。
酔った勢いで、今度みんなで材料を持ち寄ってすき焼きをしよう、なんて話も上がってきた。もちろん、すっかり忘れてしまったのか実現はしなかったけれど。
とても楽しい日だった。
こんな居酒屋はこれから先も、たぶん出会わないだろう。
のんべえ春秋
木村衣有子さんのリトルプレスに「のんべえ春秋」という酒飲みのための本がある。このシリーズにある「ホシさんと飲んでる」という小説のなかで出てくる酒場のイメージがちょうど、その下町の居酒屋に似ている。
しなびたメニュー、日めくりカレンダー、古い時代のポスター。
気張らずに行ける、おばあちゃんの居酒屋にも、それらがあった。
おいしいお酒には、いろんなものがある。お酒それ自体を楽しむおいしさもあれば、こうした雰囲気のなかで飲む楽しさを味わうおいしさもある。
おじさんばかりが集まるここに、若い夫婦が何度も足を運ぶことにおばあさんは不思議に思ったかもしれない。でも、そんな店はもう数少なくなっていることは、僕たちにも分かっている。
だから、こうした場所をいまも作ってくれているおばあちゃんに感謝していた。
帰り道に店先の赤提灯を見ると、ほっとした。いま、あの赤提灯はどうしているだろうか。
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