取り返しのつかないこと


















今年の言葉







今年一年を振り返る季節になった。



それを言葉で表す、流行語大賞や今年の漢字といったニュースも流れる。





「日本しね」というネガティブなワードが、そうした言葉のなかに含まれることに対する賛否がネット上でも飛び交っていた。





それを、悲しいことだ、汚い言葉だ、という人もいる。同時に、やりきれない思いが詰まっている、と同情する人もいる。





匿名の投稿ブログに寄せられたこの言葉。



活躍したいと思っている、輝いてほしいと言ったから、輝きたかった。それなのに・・・、という気持ちが詰まっている。





言葉そのものだけを見ることは部分的な表層を見ることにすぎず、切り取られた言葉は伝達のなかで様々なとらえ方をされていく。





しかし、誰かの悲痛な叫びがここにあった、という事実は変わらない。





それを、残さなければならないと思う。これは「負の遺産」だ。





「負の遺産」として、今年こういう言葉が選ばれた。今年こんなことがあって、こうした発言が出てきたのだ、と後の人に伝えなければならない。





その言葉で、なにか世界が変わるとは思わない。たぶん、世界は変わらない。



これは、投げつけただけの石だ。



投げつけられたものの大きさを考えると、びくともしないだろう。





それでも、どうしてもこの言葉が必要だった、という事実は残していかなければならない。



いつか、それが希望に変わるときまで。















重く、悲しく響く







もう一つ、個人的にとても印象に残っている言葉がある。



とても重く、悲しく響いた言葉だ。





今年開かれたリオ五輪での吉田沙保里選手の敗北の弁。





「取り返しのつかないことになってしまって・・・」





聴いた瞬間に、異様なまでに心に重くのしかかった。





彼女は、対戦相手以上のものと戦い、それに苦しめられていたのではないか。これほど強く鍛えてきた女性が、どれほどの重圧を背負ってきたのだろう。



どれほど、それが辛かっただろうか。





個人競技の一個人の敗戦、というだけではこの言葉は出てこない。



日本を代表する選手団の長として、レスリング界の絶対王者として、育ててきた後輩たちの憧れの存在として。そして、今は亡き父への手向けとしてのメダルをどうしても取りたかったのだろう。





これほどまで重いものを、背負わせてしまっていたことに悲しくなった。



当たり前のように、勝って金メダルを取ることをだれも疑っていなかった。



どこか、期待が過剰すぎて、彼女の抱えている感情や重圧を見過ごしていたのかもしれない。





負けたことを、責める人は誰もいない。取り返しのつかないことなんてない。



だけど、彼女にとっては、それほどまでに重く、辛いできごとなのだと、苦しくなった。





試合に負けても、素晴らしい銀メダルだ。少しのミスをしても、挽回するチャンスはある。誰の人生でも、どんな時でも、きっとそうだ。また訪れる機会にやり直すことができるし、二度とない機会でも、次はまた別の機会を楽しめばいい。





だけど、そう思えない瞬間もある。人生は、一瞬一瞬すべてが二度と帰ってこない時間だ。そう考えると、全ての時間は取り返しのつかないものである。





全てのことは取り返しのつかないことだ、というのも正しいし、取り返しのつかないことなんてない、というのも、また正しい。



















責める社会







最近、改めてこれを思い出す出来事があった。



電通の女子社員が自殺した事件、おそらく過重な労働に加えて、散々なほどミスを罵られていただろう。



電通という一流企業であるというプレッシャー、これまで頑張ってきた自分に対する自負。それらが崩れ去るほど、「取り返しのつかないこと」をしてしまったと、自分を責めていたのではないだろうか。





自分を責めすぎてはいけないのだ、ということ。



そして社会は個人に責任を押し付けてはいけないのだ、ということ。





「取り返しのつかないこと」という言葉に今の社会の病んだ風潮を垣間見たような気がした。



重く、悲しい言葉だけれど、これもまた残していかなければならない、と思う。





いつか、「こんなこともあったね」と笑えたらいいな。





少しずつ、少しずつそんなふうに世界を変えていけることはできないだろうか。



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