娘との会話


















何もないけれど







「風みたいにぴゅーっと走れるから、楽しいんだよー」





寒い日の帰り道、娘が何もないところで、嬉しそうに「わーい」と走り出すので、「何か見つけたの?」と訊いてみたら、こう返ってきた。





いいなぁ、本当に楽しいんだろうな。小さい体を軽やかに滑らせて走る娘、満面の笑み。





そこに何にもなくても、世界を楽しめるのは、子どもの特権だ。



正確には、何もないようにみえるのは、大人の目だけかもしれない。子どもは、そこに風を感じ、自分の思い通りに走ることのできる空間を見て、それを心から楽しんでいる。想像力に富んでいるというよりも、ずっと確かに世界を見ているのだ。














あ、忘れてた







何かしようとしても、すぐに忘れてしまう。





お着替えしてね、歯磨きしようね、お風呂入ろうか、ごはんできたよ。



こちらが様々な呼びかけをする、「はーい!」と元気のいい声。





でも、娘はこちらにたどり着くまでに、さまざまな「わな」に悉く引っ掛かる。





テレビから声がすると、そちらを向いてそのまま見てしまう。



床にモノが落ちていると、それを拾って遊んでしまう。



絵本やおもちゃがあると、それに夢中になってしまう。



キラキラしたものが目に入ると、そちらにふらふらと引き込まれる。





そのたびに、「おーい!」と呼びかける。



「あ、忘れてた!」と笑顔で応える。その繰り返し。





本当に、毎日何度も何度も繰り返し、そんなやりとりをしている。



大人は、もう脱力してばかりである。怒る力もなくなってしまうほど、見事に数秒も経たず忘れているのである。



「お着替えしておいてね」と呼びかけて、顔を洗って歯を磨いて部屋に戻ると、裸のまま遊んでいるのは、いつもの光景だ。



崩れ落ちて、「何するんだった?」と訊くと、先ほどの「あ、忘れてた!」と満面の笑み。





本当に悪気のない笑顔に、とても怒る気になれない。こちらも笑ってしまう。



でも、お願いだからちょっと急いでほしいときもあるんだ。大人の都合でごめん。














子どもの世界、子どもの時間







同じ世界に生きているのに、子どもにしか見えていないものがある。



同じ時間に生きているのに、子どもだけに流れている時間がある。





娘とのやり取りの中で、いつもそんなことを思う。





目に入るものすべてが面白く、一瞬でそれに夢中になって、他のことを忘れてしまう。



それからは自分の時間。ほかの流れは全て止まって、その世界に入り込む。





朝起きて、ご飯を食べて、身支度をする。



その毎日の繰り返しのなかで、それとは別の時間、別の世界を簡単に見つけてしまう。



そのスピードに置いていかれる大人は、ぽかんとして思わず笑ってしまう。





そんな世界や時間を、いつか置いてけぼりにしなきゃいけない時がくる。



そのときに、それらを頭のどこか片隅に残しておいて、ときどき思い出してくれるといいな、と思う。





日常のなかに、特別な世界が見えていたことや、日々の繰り返しの時間とは別の時間が流れていたことを。




















0コメント

  • 1000 / 1000