陰影礼賛












光をとらえる







写真を撮るようになって、光と影の捉え方、背景のボケ、どこに視点を集中させているか、といったことを自分の目で見たときに確かめるようになった。レンズを通してカメラで作図する行為を、普段は無意識に私たちの目は行っている。それを意識的に自分の目でやるようになった。



そうすると、自分の部屋の何気ない朝のひとときが、自然光にさらされたとてもいい雰囲気に見えてくる。古びた実家の台所に差し込む光が黒く焦げ付いた鍋に反射する様が、美しく見える。





写真を撮るようになって、光をとらえることに敏感になった。



そしてその光は、季節によって、場所によって、さまざまに変化する。





同時に、陰影の与える奥行きや深さ、場を引き立たせるための効果にも気づく。ハイキーな写真がSNS上でも映えるし、余計なものを取り去ってくれる強さが光にはある。



暗い写真は、潰しきれていない粒子が残り、ざらざらとした感触がある。それを汚れともとらえることができるし、味わいとして見ることもできる。個人的には、そのざらざらした感じを大切にしたい。暗闇のもつ力は写真をより現実に近づける。





世界は、輝いているだけではないのだ。



















もっと暗闇を







部屋のなかも、街も、大体においてどこも明るい。日の光が余りある昼間はもちろんのこと、夜でさえ煌々と街の灯は輝いている。道行く人の多くが手もとに携えているスマホの青白い光も目立つ。





もっともっと、暗闇がほしい。





最近になって、そう思うようになった。専ら、疲れているせいである。



いまの世界は、少し光が多すぎるんじゃないだろうか。光は人を元気にさせるけれど、過剰な光に疲れているように思える。いまほしいのは、賑やかで人を駆り立てる明るい光ではなく、静かに人の心を休ませる落ち着いた闇だ。





部屋の灯りは、そこに人がいて活動していることを示す。オフィス街に限らず、マンションや住宅街でも夜遅くまでその灯りは消えることがない。24時間営業のコンビニの蛍光灯は、どこかスマホの画面に似ている。つい引き寄せられてしまうけれど、去るときに感じる徒労や悔恨。ずっと明るくいることに、疲れていないだろうか。なにかを忘れて、なにかが麻痺していないだろうか。





静かな、何もない時間がほしい。そのために必要なのは、暗闇だと思った。暗闇の中で、感覚を研ぎ澄ます。目を閉じて、聞こえる音に耳を澄ます。想像する。





光だけで写真は成り立たないように、光だけでは人の生活は成り立たない。なにかを想像させる、余韻を残した暗闇が必要だ。



















闇の中に







自然を好む人ほど、闇が連れてくる気配を好んでいるように思う。光が届く範囲だけが見える世界と、暗闇に包まれたどこまで続くか分からない世界。想像力を掻き立て、あるいは光があるときには想像しえなかったことが浮かんでくるのが闇の世界だ。





少し、光ある世界に疲れたら、輝くことの重圧に押しつぶされそうになったら、闇の中にもぐってみるのもいいんじゃないか。闇の中で、少し疲れを癒そう。何もしない時間を大切にしよう。





そうすると、また光のことが好きになるかもしれない。





そんな陰影礼賛である。













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