境界のありか
今年の初めから、五体不満足の乙武洋匡さんのオンラインサロンに加入している。
もともと時事問題や教育に関心の高い彼だが、昨年起こした騒動以来、twitterやその他の場面でほとんどそうした事柄に関しての発言がまともにできなくなってしまった、という。
そこで、オンラインサロン上で、ややクローズドな形で議論をする、との目的で始められた。
彼の、不倫騒動に関しては、いろいろと思うところがあり、単純に悪として断罪していいのかどうか悩まされた。すっきりしない気持ちを抱えていてもしょうがないので、本人に直接話をしてみたい、と思ったのがサロンの加入のきっかけでもある。
先日、東京でオフ会があり、参加して実際にお会いすることができた。
ここでは、そのオフ会のことについて、すこし書きたい。
オフ会に参加していたのは20人ちょっと。
身体的・精神的な障害を持った方が半分ほど。変わった人は、全員。
いまの乙武さんに関わってみたいという物好きな人は、そんなものなのかもしれない。
個性的なメンバーの自己紹介だけで、会の8割を費やした。時間にして2時間半ほど。
星野道夫さんの『旅をする木』のなかで先住民の会合の様子が出てくるが、それを思わせる。そこでも、皆自分事の問題から幅広い問題まで、思うところを話すのだけれど、似た雰囲気があった。
自分の抱える悩みや問題が、いま自分がこの場所にいる理由、乙武さんのサロンに参加した理由とそのままつながっているという人がほとんどだった。
「あなたはなぜここに来たのか?」それを各々が話すだけで、各々の物語ができているのだ。そして、それをみんなの前で話せる、ということもまた重要なことだった。この人の話をちゃんと聞かなきゃいけない、ここでなら言いたいことが話せる、お互いにそう思える空気があった。
主役の乙武さんが障害者である以上、どこかに「障害」という共通の問題意識が生まれている場であり、同時に、その意識が非常にあいまいな、不確かなものに感じられる場でもあった。
障害のある人、ない人の「境界」を引くことは難しい。
脚が無い、動かない、異形、マヒ、五感がない、など分かりやすいものを障害と呼ぶだけでなく、見た目で判断のつきにくい精神障害もあるし、さらにいえばメガネをかけている人、太っている人、極度に痩せている人は、障害とはいえないのだろうか。そう考えていくと、その境界はとても揺らぎやすいものであることに気づく。
実際に、障害のある人と話してみれば、彼らは彼らで普通に生活を送っているにすぎないことが分かる。
障害を意識させずに話す人もいるし、ある程度気づかってほしいと思っている人もいるかもしれないが、彼らの存在があまりに溶け込んでいるような場では、全く自然と話ができる。
単純に「マイノリティである」ということだけが、彼らを特異なものにしているような気がした。海外旅行者のように、ただ集団のなかで目立っているだけだ。
「生きづらさ」は誰もが少なからず、感じるものである。
「生きづらさを抱えて生きていくこと」が障害なのであれば、みんな当てはまるのではないだろうか。
寛容な社会、は多くの選択肢を人に与えるし、少ししか選べない人にとっても優しい。
生きづらい人の「生きづらさ」を明らかにするのに、なにか線を引いて分かるようにするのではなくて、どこか全ての人の連続性のなかに違和感のようなものを感じ取って、それと向き合ったり、ときに迂回することで「生きづらさ」を和らげて、解消していきたい。
はっきりと明確に区切られた「障害」を乗り越える、あるいは見えなくするよりも、もっと曖昧なよくわからない「生きづらさ」を皆同じように持っているそれと連続したものとして捉えて、一緒に考えるほうが、マイノリティにとっては、とてもうれしい。
遠回しな表現ばかりで、分かりづらい内容だけど、境界のありかを分からなくした方が、ずっといろんな人とつながれて、仲良くなれる。そう思った会合だった。
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