町の床屋さん












先日、東西のいま注目されている町の本屋さんの話を聞く機会があり、そのときふと町の本屋さんって、「町の床屋さん」に似ている、と思った。





「その町のことを知りたかったら、その町の床屋さんに入るといい」とどこかで教わったことがある。





床屋さんには、いろんな人が出入りして、いろんな話をしながら髪を整えられていく。



その町のいろんな話を、その床屋さんは聞いているのだ。





僕自身も、いま、ここに引っ越してきた時も、初めて行った床屋さんで、この地域のうわさ話や地元の人しか知らないような話をたくさん聞いた。話の好きな床屋さんもいるし、寡黙な床屋さんもいるけれど、その様子は、土地のことをよく表しているのかもしれない。このへんの人は、みんな話好きだ。





本屋さんの数も年々と減少しているが、床屋さんの数も一方で右肩下がりである。代わりに開かれているものの多くは美容室だ。





理容師よりも美容師を目指す人が多く、理容師全体の高齢化が進んでいる。



町で、トリコロールのサインポールもあまり見かけなくなったように思う。



お洒落に仕上がった美容室のほうが、どこか目立っている。というより、気づけば溢れているように思う。





一時期、コンビニよりも多い、と言われたこともあったという美容室は、たしかに乱立したようで、広告誌によるビジネスによって小さな資本でも成り立つようになった。





床屋さん、というとどこも懐かしいような昔ながらのイメージがあるが、美容室というと、同じイメージでも、少し洗練されたものが思い浮かぶ。その人の好みやセンスによってナチュラル、シック、ゴージャス、シンプル、さまざまな練化の方向性があるように思う。





本屋さんも、以前は金太郎飴のようにどこの店舗も同じ風貌だった。



それで通用しなくなったのは、本が売れないと言われ始めてからだ。それからの本屋さんは確かに変わりつつあり、もしかしたら美容室のように生まれ変わっているのかもしれない。



そんなセレクトショップのような本屋さんは、いま文化的なトレンドになっているものの一つだ。





もし、いま本屋さんが美容業界と同じように舵を切っているとすれば、誰かの交通整理が必要なんじゃないか。美容室が乱立したこの業界は、決して良くなったと言える状況にはないようだ。サービスのニーズは高まる一方で、価格競争に追われ、安い給料は上がらない。それでも、町に床屋は必要だ。





同じように、本屋さんをやりたい人が、ただ「センスのいい」と言われるようなものをそれぞれ作ってみても、やっぱり消耗戦になってしまうんじゃないだろうか。それでも、町に本屋は必要だ。















誰にとって、最も必要な存在になるべきだろうか?





新しく来る人。



町を訪れた人が、その町に馴染めるような。



少し不安だった気持ちがほぐれて、新しいスタートが切れるような。





ずっと待ってる人。



いつもの同じ場所じゃないと安心できない。



流行り廃りに関係なく、いつでも同じようにしてくれる。





いつか去る人。



最後に、この町を、この場所を、忘れるために。



身支度をして、整えて、準備をして旅に出る。









長らく続けてきた床屋さんは、きっとそんなふうに人と関わってきた。



そんな人たちが、床屋さんを必要としている。





「髪を切る」という行為を通して、その人の背中をそっと押すような、ほんの少しの手助けをしている。





同じようなことは、本屋さんにもできるのではないだろうか。









老若男女だれでも訪れることのできる場所は、そんなにあるわけじゃない。





それぞれの場所に、一つでもそんな場所があればいい。





公的な施設を除けば、本屋と床屋だけが、その資格のある商店のように思う。









そんな数少ない場所で、そっと背中を押すようなきっかけを与えてくれたら。





僕は、その店をとても好きになると思う。






















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