終わりの消費
世界は終わりません
「世界は終わりません、残念でした。」
「終わり」は消費される。
アメリカは終わった。民主主義は死んだ。日本死ね。政治は終わっている。
紙は滅びる。本は終わった。文学は死んだ。
常に、何かを殺したがっているし、終わったものだと思いたがる。
「終わり」そのものはコンテンツとして、とても人々を魅了するものだ。
「世界の終わり」は人を興奮させる。話題になる。
なのに、自分だけは終わらないと思っている、本当は終わらないことをどこかで知っている、そんな感覚に襲われる。
“文学が終わっただの純文学は終わっただの近代文学は終わっただの、もう何百年も何十年も繰り返し言われている。そう口にする自分だけは新しいと思ってるわけでしょう。残念でした。そんなことはもう飽き飽きしているんですよ。”
佐々木 中 『切り取れ、あの祈る手を』
佐々木中氏は、2011年にこんなことを言っていた。
この言葉は、深くずっと残っている。
「終わり」に期待してはいけない。
「終わり」があることで、なにかが変わるかもしれないという希望は、今ある苦しみから逃れたい、という思いから来る。
終わったな、と一言で片づけることは簡単でも、終わらないためにもがき苦しんでいるための人たちがいっぱいいる。
絶対終わらない、終わらせない、まだ死んでいない、と覚悟と決意をもって臨んでいる人がいる。
僕たちが終わりを望んでいるものは、たしかにゆっくりと降りていくものなのかもしれない。
少しずちいさく弱くなっているのかもしれない。
でも、何も終わらない。これからも何かはずっと続いていくのだから、とにかく生きる。
生きるために、終わりは終わらせない。
0コメント