『この世界の片隅に』
やりきれない悲しさ
映画『この世界の片隅に』を観た。
冒頭の画から、とても優しい色合いのアニメーションで始まる。
戦争を題材にしているのに、とても色彩にあふれている。
ピアノの音が弾むように歌う。
「のん」さんの声が圧倒的に透き通っている。
可笑しくて、やわらかくて、ときどき強くてやさしい。ただそれだけで涙があふれてしまっていた。
70年前の世界に、今の僕らはノスタルジーを感じない。
呉市の景色に馴染みはない。
当時の悲惨さは、歴史を通して知っている。
特別なストーリーはない。
ちょっと変わってるけど、当時の「ふつうな」一人の主婦の日常を描いた映画。
なのに、どうしてただ戦中の日常を描いた作品に、これほど涙してしまうのだろう。
記憶と風景
70年前の風景を、知っている人は少ない。
戦争で焼ける前の街、焼けた街。原爆が落ちる前の広島の街。その当時の日常。
戦争の記憶はなく、知識や情報として僕らはその当時のことを知っている。
だけど、自分ではどうしようもないものに命を奪われ、人生を奪われる感覚、何もかも無くなってしまった町に、2011年以降の僕らはどうしても既視感を感じてしまう。
映画の制作者にその意図はないという。
それは、当然のことで、天災である地震と、人災である戦争を一緒にしてはいけない。
でも、声の主が「のん」さんであることで、余計にその連続性を感じてしまう。
『あまちゃん』で主役を演じきった彼女が、再びここで「やりきれなさ」の体験を声で演じている。
多くの人にとって、身近ではないはずの、目をつむりたくなるような当時の日常に共感できてしまうのは、そのせいだと思う。
『あまちゃん』のなかで、僕らはこの物語の先に何が起こるか知っていた。同じように『この世界の片隅に』の物語で何が起こるかを知っている。
ちょうど、落ちるのが分かっているジェットコースターに乗っているように、ゆっくりと巻き上げられて、上に上にと進む。
僕らは落ちていく感覚を、身体の記憶の中に持っている。だから、それを疑似体験できる。
当時の風景は知らなくても、当時の知識に乏しくても、身体に刻まれた感覚は、昔も今も変わらない。だから、彼女らが見た風景に共感できる。
「ふつう」であること
ヒロインの女性は、「ふつう」の感覚をとても強く持っていた。
とても、のんびりしている。
なんでもない、ふつうの女の子。ふつうの女性。
誰もが、その言動におかしみを感じ、親しみをもって見守る。
ときどき、あまりの間抜けさにあきれながらも。
何でもないふつうの主婦の話だからこそ、描くのはとても難しい。
その平凡な日常を彼女の視点で描きながら、何かがおかしい世界を今の私たちに見せている。
ふつうじゃないときに、「ふつう」の感覚を持ち続けることは、難しいことだ。
それを保ち続けた彼女は、そのことに気づいてしまう。
生きていて、よかった。
家が燃えなくて、よかった。
怪我の治りが早くて、よかった。
そんな「よかった」は本当にふつうなの?私にはわからん。
『この世界の片隅に』
知らず知らずのうちに、気づかないようにしていたのに、大切なものをたくさん失ってしまった。
悲しくてやりきれない。その「やりきれなさ」を、とても強くかんたんな言葉で、強い衝撃ととともに与える。そこで、堪らなく涙があふれた。
ふつうの日常が描かれているはずなのに、ふつうの日常が奪われているさまを、見せつけられてしまった。
心理学者の中井久夫は、その著書の中で、
戦争は進行していく過程であり、平和は状態である。
過程は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。
これに対して状態は体面的で名付けがたく、語りにくく、つかみどころがない。
『戦争と平和』p.8
と述べている。
戦争反対の言論は、達成感に乏しく次第にアピール力を失いがちである。
平和は維持であるから、唱え続けなければならない。
『戦争と平和』p.16
とも。
この感覚を忘れないようにしたい。
戦争の悲惨さでもなく、憎しみの醜さでもなく。
ふつうでない世界で「ふつう」であり続ける感覚を。
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