日の移ろい
日常の記録
日記を書く。
生活の記録をつける。
旅のノートを書く。
そうした日常は、後に形になって残る。読み返すことができる。
紙でもブログでも、それは変わらない。
でも、その記録をのちに見ることになるのは、自分だけとは限らない。
机の中にしまわれた日記は、何年後かに母親が見つけるかもしれない。
引っ越しのときに恋人に見つかるかもしれない。
死後、子どもたちが見つけるかもしれない。
ブログは、一般に公開していれば、だれでも見ることができる。
若い時に書いたブログを見て、あまりの青さに思わず赤面してしまうかもしれない。
学生時代のブログが会社の先輩や同僚に見つかって、からかわれるかもしれない。
だから、残さない。刹那的に残す。
そんなサービスが若い人たちのあいだで流行っている。
いつまでも残らないメッセージ。秘密のメール。
すぐに消えてしまう写真、日常の記録。
そうした日常は残らず、消えてしまうのだろうか。
現れては消える
でも、いま目の前にある日常が消えていくことは、当たり前のことでもある。
物に込めた思いはそれが無くなればいずれ忘れてしまう。
紙に書いた記録も、あわただしい日々のなかで忘れ去られ、消えていく。
”それらが形になって残ること”のほうが普通ではないことなのかもしれない。
どんどん世の中には情報がストックされていく。
日々の記録もどんどん、残しておくことができる。
紙も、データ化してしまえば嵩張らない。
僕たちが日常だと思って記録している日常は、それを書き記した時点で、本当に起こった出来事とは異なるものになっている。
全てを書き留めることはできないからだ。
忘れ去られた、書かれなかった出来事がその日常からは抜け落ちていく。
その積み重ねをのちに見返したとき、それを思い出したとき、僕たちは別のものを僕らの日常として認識している。
とても曖昧で不明瞭で、間違った「情報」だ。
間違った情報を不必要にストックすることはない。正しい情報だけがあればいい。
だから、それらはすぐに消えるものであればいい。
もちろん、日常を「情報」として扱うならば、という仮定の話だ。
日常に思ったことを綴るのは情報を残すためではないし、だれかに正しいことを伝えるためでもない。
自分がそのときもっていた感覚と能力で、自分のなかにある曖昧で不明瞭なものを捉える。
ただ、それだけ。
目的がなくても。何の役に立たなくても。間違っていても。
きれいな物語にしてしまえばいい。全部嘘でもいい。
僕たちが生きてきた痕跡は、僕たちが自由に残すことができる。
その自由だけは、奪われてはいけないものだ、と思った。
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