新しい浜で
日常を書くこと
あるブログを読んで、思ったことがある。
インターネット上の文章は、みんなに開かれたものだ。
誰でも書ける。誰でも読める。
だからこそ、面白いのだし、発見がある。
インターネットは、そうした双方向性をもつメディアとして発展した。
ライターでも作家でもないふつうの人が、ふつうの日常を書く。
日常のなかには、楽しいことだけでなく、どうしようもない憎しみや悲しみ、悔しさや怒りといった感情を抱く出来事もある。
そうした感情で書かれた言葉は強い。
「日本死ね」と書かれたブログがそうであるように。
そうした言葉は「正しさ」の前に弱い。
「死ね」なんて言葉は確かに間違っている。そこにある感情を考慮しなければ。
そうした「正しさ」は徹底して個人を攻撃するようになった、というのが紹介記事の主張だ。
自分のブログは、自分のブログではなく、公共のものになってしまった。誰もが、誰かの目を気にして、文章を書く。みている人を想定して文章を書く。昔のインターネットの文章は、例えるなら、海に流すボトルのようなもので、どこかに流れ着いて、誰かに届けばいい。そんな感じのものだった。
http://nectaris.hatenablog.com/entry/2016/12/12/073000
自由にボトルを流すことはもうなくなったのだろうか。
浜を歩いていても、もうボトルは見つからないのだろうか。
見つけること
インターネットは、答えを見つける場所ではない。正しいことが書いてあるとは限らない。
いつしか、インターネットは、リアルな現実には書かれていない真実が書かれていて、そこに根拠を求めるものになってしまったのかもしれない。
だから、誰が書いたんだ、根拠はなんだ、と問い詰める。
誰もがきちんと裏を取って正確な情報だけを書く、「いい子」であるために自分の弱さを書かない。
そんなインターネットだったら、つまらないだろう。
玉石混交、虚実入り混じる。
砂浜を歩いて形の面白い貝殻を探す。偶然流れ着いた、古い道具を見つける。
海辺を散歩してコーミングするとき、そうやってたくさんのゴミの中から、面白いものを見つける。
人が多くなると、自由なふるまいに目くじらを立てる人は必ず出てくる。
人の多い砂浜で、ボトルを投げたら「ゴミを捨てるな!」と怒るひともいるだろう。
そんな浜は、僕も苦手だ。
多くの中学生や高校生のSNSアカウントは鍵をかけている。そうするように教えられている。
「炎上」した著名人は、ブログを非公開にし、有料マガジンやメルマガのみに「閉じる」ようになった。
それは、とても正しい行動だ。
自分の日常が脅かされるリスクを抱えながら、それを晒し続ける人は少ない。
そして、日常を閉ざす。
でも、誰もがそんな攻撃的な人なわけじゃない。
ときどき、そうした人がいるのは確かだ。学校でも、職場でも、地域でも。
そんな人たちとうまく折り合いがつかないとき、無理に付き合うことは全くない。
だから、そんな窮屈な浜にいつまでもいる必要もないのかもしれない。
どこかに新しい浜はないだろうか。
新しい浜で
僕は、今ここを新しい浜にしている。ここは、まだ人の少ない浜だ。ちょっとクセがあるかもしれない。
ここではおよそ、役に立たないだろうことを、ただただ書いている。
僕も自分の言葉に自信がない。
とても気取った文章だし、たっぷり飾っているかもしれない。
間違ったことも書いているかもしれない。
だから、ひっそりと書いている。
インターネットは、もともとマイノリティにやさしい世界だった。
同じ穴のマイノリティを探せば、見つかる。つながる。
そのおかげで救われたひとも多いんじゃないかな、と思う。
冒頭のブログの著者の思い描くインターネットと、僕の思うインターネットは違うかもしれない。
海は、どこから見るかによって表情が異なるものだし、そもそも人の見方はそれぞれに違う。
ひとくくりにインターネットを語ることは難しいけれど、広いインターネットの世界の中で、どこかにただ日常を流し続けるだけの場所がいまもあって、そうした日常はだれかに見つけられるのを待っているんじゃないかと思う。
そう思う方が、やっぱり気持ちは救われる。
インターネットは、まだ死んでいないし、人の日常は絶えず流れ続けている。
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